『often 』の『しばしば』ってどう意味?

学校の成績は、国語力が9割と言われています。
子供達に確かな国語力を!

11月25日【まなび舎日記】
モントキアラ クアラルンプール マレーシア

保護者の皆様こんにちは。

今日は面白い記事をご紹介しますね。

塾生のお母さんから、
『語彙力の重要性に、改めて気づかされました』
とのメッセージと共に、記事を送ってくださいました。

作者が、子供時代に経験した体験談を交えて書いておられるので、非常に説得力がありました。

保護者の皆様に共有して頂きたいです。
是非ともお読み下さい。
↓↓↓

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00049/?

9時10分前を理解できない若手を生んだ日本語軽視のツケ

河合 薫
健康社会学者(Ph.D.)
2019年11月19日

 先日、講演会後の懇親会で、管理職が20代の社員たちの日本語能力に悩まされているという話で盛り上がった。

 「9時スタートの研修会なのに1分前にドサドサと入ってきて、5分、10分の遅刻は当たり前。なので『9時10分前には集合するように』と言ったら、キョトンとした顔をされてしまって。ま、まさかと思いつつ『8時50分に来るのよ』と念押ししたんです。そしたら、『あ、そういうこと』って。もう、わけが分かりません」

 こんな“珍事件”に面食らった上司たちの嘆きが、「これでもか!」というくらい飛び出したのである。

 確かに、私自身、店で領収書をもらおうとしたときに、「???」という事態に何度か出くわしたことがある。

【ケース1】
河合「領収書をお願いします」
店員「宛名はどうしますか?」
河合「上、でいいです」
店員「うえで、ですね!」←自信満々感満載
河合「……は、はい」
するとなんとその店員は宛名の部分に「上出」と書いた。

【ケース2】
河合「領収証お願いします」
店員「宛名はどうしたらいいですか?」←必死で丁寧に振る舞っている
河合「カタカナで、カワイ、でお願いします」
店員「カワイですね」←自信満々!
河合「(失笑)」

 ……どちらも20代。ケース1は「上様」を知らず、ケース2は普通は「カワイ、様ですね」とか「カワイ、様でございますね」となるのに、いきなりの呼び捨て。笑ってしまった。

 まぁ、これらは日本語の問題というより、常識の問題。つまり、こういう対応が気になるようになった私が年を食っただけのことだ。

若者の国語力が下がっている

 一方、上司たちの「言葉が通じない」嘆きは日常の業務にかかわること。たとえ一つひとつはささいなことでも日々繰り返されるとストレスになる。

 というわけで今回は「言葉が通じないワケ」についてあれこれ考えてみようと思う。
 まずは冒頭の懇親会で聞いた“珍事件”から。

「部下に『そのタスクは結構、骨が折れるから覚悟しておけよ』って言ったら、『え? 肉体労働なんですか?』って返された。どうやら骨が折れるを骨折と間違えたようだ」

「社長に褒められた部下に、『現状に胡座(あぐら)をかいてると、後輩に追い越されるぞ!』って活を入れたらキョトンとされた。あぐらをかいて座ることだと思ったみたいです」

「送られてきたメールが一切改行されてないので『読みづらいから、項目ごとに改行しろ』と言ったら、『改行って何ですか?』と言われてあぜんとした」

「営業先で『お手やわらかにお願いしますよ』と言われ、会社に帰る途中で『あの人、やわらかいんですね。どうしたらやわらかくなるんですか?』と真顔で聞かれた」

「高齢のお客さんに取扱書の内容を説明するのに読み上げるだけだったので、分かりやすく自分の言葉で説明してあげてと伝えたが全く改善されず。理由を問いただしたら、取扱書の文章を理解できていなかった」

「分からない語彙があったらその都度辞書で調べるようにと、辞書を渡したら、引き方が分からないみたいで、異常に時間がかかった」

「英語で書かれた仕様書を翻訳させようとしたら、英和辞典に書かれている日本語の意味が分からないと突き返された」

「業務報告書を手書きで書かせているのだが、漢字の間違いが多すぎる。混乱を困乱。特にを得に。性格を生格……」

「消費税が2%上がるという、2%を理解させるのが大変だった」

 ……ふむ。どれもこれも嘘のようなホントの話。もちろん20代でも、日本語を巧みに使い、理解度も高く、文章力がある社員もいる。だが、上司たちは「日本語の能力が低下してる」と日々感じているのだという。

 もっとも、漢字が書けないとか間違った漢字を使うとか、慣用句を知らないというのは、その都度学べばいいだけの話だ。問題は語彙力の乏しさからもたらされる日本語の読解力の低下だ。

 個人的な話で申し訳ないが、私自身、小学校4年から中1まで米国で暮らし、その間日本語の教育を受けていないので学生時代は壊滅的に語彙力が乏しかった。不思議なことに知ってる語彙が少なくとも日常的なおしゃべりに困ることはなかった。

 ところが、高校生になって現代国語の校内実力テストで、長文問題を何度読んでも理解できなかったのである。

 漢字が読めないとか、読めない字があるとか、そういったことじゃない。ちゃんと音読できるのに、意味が分からない。古文でもなければ漢文でもない。ただの現代文。なのに書いてあることが、ちっとも理解できなかった。生粋の日本人なのに、なぜか日本語が理解できない。漢字が読めないことを笑われても気にならなかったけど、日本語の文章が理解できないという現実はかなりショックだった。その結果私は文章を避けた。28歳でお天気の世界に入るまで、本を一切読まなくなってしまったのだ。

会話はできても文章理解力は低かった自分

 実は同様のことは米国でも経験していて、英語の本を読めても日本語に訳せない。俗っぽくいうと、フィーリングでなんとなーく理解するものの、物語が描いている世界観や言葉に込められた深層構造を理解することができなかったのである。

 言語を習得するにはたくさん聞くだけじゃなく、たくさん読むことが必要不可欠で、言葉の運用力を高めるには語彙力が影響する。実際、 読書経験を重ねることで、語彙力が高まり、それが文章理解力の向上につながることは、国内外の調査から一貫して報告されている。

 米国人大学生を対象にした様々な調査では、小さい頃から本をたくさん読んでいる学生ほど、スペルの間違いが少なく文章を理解する力が高いとされているし、日本人大学生を対象した調査では、新聞や雑誌ではなく小説の読書量が強く影響することもわかっている(「大学生の読書経験と文章理解力の関係」澤崎宏一)。

 小説でつづられる母語の名文を繰り返し読んだ経験が、日常生活で身につく経験や情報と結びつくことで、文章を理解する力が高まっていくのである。

 デジタル世代の若者たちは、日々携帯メールやラインの送受信を繰り返しているので、日常的な会話量は半端なく多い。だが、おしゃべりは所詮おしゃべりでしかない上に、親密になればなるほどメールでの言葉は省略され、絵文字だけでもやりとりが可能になる。いわばメール版「あうんの呼吸」だ。

 フェースtoフェースなら、相手に伝わるまで言葉を脳内から振り絞ったりすることがあるが、デジタルの世界ではその必要もない。要するに、若い世代は圧倒的に語彙を増やす機会に乏しい社会に生きている。しかも、本を読む子供たちが激減しているという悲しい現実もある。

 平成28年度委託調査「子供の読書活動の推進等に関する調査研究」(文部科学省)によると、不読率(1カ月で読んだ本の冊数が「0冊」と回答した生徒の割合)は、小学生が1割未満、中学生が約1~2割、高校生が約3~4割で、読書時間・読書冊数ともに、学年が上がるにつれて増加傾向にあることが分かった。

 また、「第54回学生生活実態調査の概要報告(2018年)」(全国大学生活協同組合連合会)では1日の読書時間が「0」と答えた学生は48.0%。17年の53.1%より減少したものの、半数近くの学生に読書習慣が全くない。

小学生で本を読まないとそのまま大人になる

 この調査では、大学入学までの読書傾向も聞いているのだが、

小学校高学年では読書時間が30分以上だったと回答した人が54.1%いるが、高校になると33.0%に減少

小学校入学前から高校にかけて「全く読まなかった」人は、現在の読書時間も「0」が多く、特に高校時代に「全く読まなかった」人のうち現在も読書時間「0」の人が72.7%(全体平均48.0%)を占める。

小学校入学前と高校で120分と長時間読書している層は現在の読書時間も長い傾向がある

といった関係性も認められている。
https://www.univcoop.or.jp/press/life/report.html

 「学校の成績は国語力が9割」ともいわれるように、日本語の読解力、記述力は国語だけでなくすべての教科で必要な基礎となる能力だ。日本語の読解・記述力が不十分だと、数学の文章問題は理解できない。理論構成が支離滅裂な解答しかできない。思考力も想像力も、母語の運用能力に支えられている。

 そもそも言語は、単なるコミュニケーションのツールではない。言語と思考とは互いに結びついており、特に母語の役割は果てしなく大きい。

 母語により私たちは目に見えないものを概念として把握し知覚する。精神的な世界は言葉がないと成立しない。また、目の前に何か見えたとしても、その何かを示す言葉がないと、それを理解できない。

語彙の豊かさが思考力や豊かな感情を育む

 例えば、日々暮らす場所であるという意味を「家」という語彙で概念化することで、形や色が違っても「家」と知覚することができる。性的ないやがらせをする行為を「セクハラ」という語彙で概念化することで、そういった行為が明確に意識され、「ああ、そういったことはやってはいけないんだ」と規範を学んでいく。

 つまるところ、言語で表せる範囲がその人の認識世界。語彙が豊富であればあるほど知識は広がり、感情の機微も、複雑な人間関係も理解でき、世界が広がり、創造力も高まっていくのである。

 英語教育にすったもんだ続きの文科省は、2003年3月31日に「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を示し、そのなかの「英語教育改善のためのアクション」の6番目に「国語力の向上」を掲げている。

 具体的には、「英語の習得は母語である国語の能力が大きくかかわるものであり、英語によるコミュニケーション能力の育成のためには、その基礎として、国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成するとともに、伝え合う力を高めることが必要である」 と。

 ところが、これだけ日本語が理解できない大人が増えているのに、英語力の低さばかりに関心が集まり、揚げ句の果てに民間試験導入などどわけの分からない方向に進んでいる。

 実際には母語である日本語力の低下、具体的には語彙力の低下が背後にあり、それが英語力の低下につながっているのだ。

 大学関係者であれば学生に英和辞典を引かせる苦労を経験している人は少なくないはずだ。10年以上前に某新聞社が「日本人の日本語力の低下」について連載し、その中の珍事件が大学でちょっとした話題になった。

 ある大学で英文の講義で学生に「often」の意味を調べさせたところ、英和辞典に書かれていた「しばしば」という意味が理解できなかったのだ。当然ながら「頻繁に」という訳語も理解できない。そこで教師が、「よく~する、ってことだ」と説明したところ、「よく、は『good』の意味」としてしか認識できない学生がいたというのである。

興味あるテーマから次々と読む経験を増やす

  さて、と。ここまで書いたところで今回の問題をどう締めようか、考えあぐねている。つまり、コミュニケーションで悩むのは常にアクションを起こしている側なのに、コミュニケーションではアクションを起こされている側に「決定権」がある。いかにも不条理でコミュニケーションが永遠のテーマになるわけだ。

 ただ、日本語力の低い人でも、「誰が(主語)、何を(目的語)」をきちんと文章に加えた完全文にすると理解しやすくなるとされている。

 会話では主語が省略されがちなので、そのあたりを気をつけるだけでも少しは変わるはずだ。と同時に、部下が主語や目的語を省略している場合も、「誰か?何を?」と尋ねるだけでもすれ違いは防げる。めんどくさいかもしれないけど、試してみる価値はあると思う。

 そして、もし素直で殊勝な心を持ち合わせている部下なら、興味あることの本を読め!と勧めてください。

 というのも、長文が理解できなかった私がコラムやら本やらを書けているのは、お天気の世界に入り小学生向けのお天気図鑑を徹底的に読んだからだ。

 お天気図鑑を何度も何度も理解できるまで読んだら、次々といろんなお天気の本が読めるようになり、難しい物理式が書かれているものまで読めるようになった。健康社会学の世界に入ってからは、山のように論文を読みあさってきたし、それは今も続いている。

 その結果、語彙が増え、並行してインタビューを続けているので、自分の無意識の認知世界が意識化され、内部に宿る価値観やら考えを表現できるようになったと個人的には理解している。

 それでも……まだまだ日本語がおかしいという自覚がある。だからこそ「また書こう、書かなきゃ」というモチベーションにつながっている。日本語って……本当に難しい。